今まで、擦り硝子を一枚挟んでいたようなぼんやりとした世界は、自覚と言うものをしてしまえば驚くほど鮮明に見えてくる。 思い起こせば、自分が八戒に感じた様々な感情や衝動は、彼が好きだったからなんだなと、悟浄は思った。 思って・・・考えること数分。 場所は自分の家の前。 寺院から戻って・・・悟浄は扉の前に立ち尽くしていた。 (・・・どんな顔すればイイ?) どんな顔も何も・・・八戒は悟浄の気持ちなど知らないのだから、普段通りにしていれば良いだけのことなのだが・・・。 余計な事に気を回して、悟浄は中々自宅に入れないでいた。 (俺って・・・超ダサダサじゃん) らしくも無い・・・。いつもの様に扉を開けて「ただいま」を言って、それから・・・・・・・・・それからどうしよ・・・。 八戒の顔を見て・・・自分は動揺しないだろうか? 変な言動や行動を取って、八戒を不信がらせたりしたら・・・。 ガチャ 「・・・さっきから、何なさってるんです?悟浄・・・」 再び意味の無い思案に暮れそうになった刹那、目の前の扉が内側から開けられ、今悟浄が一番会いたくて、一番会いたくなかった顔が覗く。 「は・・・八戒・・・」 「何時入ってくるのかと思えば、全然入る様子も無いんですから・・・」 どうやら彼は、悟浄が帰って来ていた事を随分前から察知していたらしい。 「・・・悪ィ・・・」 ポリポリと頭を掻きながら、悟浄は視線を泳がせる。 (ヤベェ・・・八戒の顔、直視出来ねぇ・・・) 「早く入ってくださいね。風邪引いちゃいますよ?」 明るい室内に促される。 気付けば、既に辺りは暗くなっていた。 家に一歩入り、後ろ手にドアを閉める。と、同時にため息。 自分の気持ちに気付いた途端、慌てふためいているのが情けない。 「・・・悟浄」 何時の間にか、至近距離に八戒の顔があった。 驚いて後ずさったりしなかった自分を心底誉めてやりたいと、この時悟浄は本気で思った。 「おかえりなさい」 優しい笑顔と、優しい声と・・・頬に触れるだけの、優しいキス。 それから、悟浄の瞳を覗きこんで、更に微笑む。 ほわり、と・・・。 心に燈る、暖かいもの。 (・・・ま、いっか・・・) 何だか・・・さっきまでの自分が滑稽に思えた。 ポジティブ思考は、俺の得意とする所だろ? 八戒の腰に、腕を回す。 擽ったそうに身じろいだだけで、八戒は嫌がらない。 こんな事を許してくれるなら・・・自分のことを少なからず好いてくれているという事だろう。 出会ったばかりの頃は・・・指先が触れただけでも萎縮してしまうくらい、人の温もりに臆病になっていたのだから・・・。 (・・・イイ傾向なんだよな、これは) それに・・・今はこの状況を楽しめばいい。 (傍から見たら・・・まるっきし、『新婚さん』な光景の気がするけど・・・) 何時の間にか笑みを象っていた唇を、八戒の額に落とす。 八戒が、自分にしてくれたのより少し長く・・・。 「・・・ただいま」 そう言えば、八戒が花の咲いたような笑顔を自分だけに向けてくれるのを、知っている・・・。 「何だかご機嫌ですねぇ、悟浄」 「んー?もう最高よ」 天気はイイし、メシは上手いし(コレはいつもの事だが)、八戒は美人だし(コレもいつもの事だけど) 吹っ切れてしまえば、何て世界の明るい事か。 モノクロの風景に、一気に色がついたって感じだ。 すると、悟浄につられたように朝から始終ニコニコしていた八戒が、コーヒーを淹れながら聞いてきた。 「悟浄、今日はどちらかへ出掛ける予定はありますか?」 「いんや、ないけど?」 「じゃあ、買い物付き合って頂けます?」 「なに?俺ってば、荷物持ち?」 「まぁ、そうとも言いますね」 クスクスと・・・耳に心地良い、八戒の笑い声。 そのまま、その細い身体を抱き込んでしまえる勇気は、まだ自分には・・・無い。 「・・・オッケ。じゃあデートしますか」 「はい」 嬉しそうに八戒が笑う。 今はまだ・・・この笑顔を一番近くで見ていられると言う事に満足していよう。 休日の為か、街はかなりの人で賑わっていた。 そんな人の流れを来様に避けて、八戒はスイスイ泳ぐように店から店へと移動していく。 「ちょ・・・待てよ、八戒!」 ───・・・何でこの人ゴミの中を、涼しいツラして進めんだよ・・・。 「大丈夫ですか?悟浄」 人の波を避け、細い路地に入りしゃがみ込んで息をつく悟浄に八戒が、心配そうに声をかける。 「・・・そう思うんなら、荷物一つ持ってよ」 両手いっぱいの買い物袋を抱えて、悟浄は恨めしげに八戒を見上げる。 「荷物持ちは悟浄の役目だって、言ったじゃないですか」 「だからって、ここぞとばかりに買い込むなよ・・・」 「弱音吐かないで下さいよ。男でしょ」 ───もしかしなくても、俺って尻に敷かれてる?(汗) 「何か俺・・・イジケそう・・・」 「仕方ないですね」 苦笑交じりに八戒がため息をつく。 「残りの買い物済ませて来ますから、悟浄はここで待っていて下さい」 「ココで?一人でか?」 「そうですよ。一緒に回ったら、悟浄はぐれちゃいそうですもん」 「お前・・・ガキじゃないんだから・・・」 「それとも、そうならないように手でも繋いで歩きます?」 「お♪良いなソレ」 「・・・冗談ですよ・・・。大体、手なんか繋いだら悟浄、荷物一つ持てなくなるでしょう」 ・・・だからそれは、八戒が一つ持てば良いだけの話じゃ・・・と、悟浄は思ったが、言ったところで笑顔で却下されそうなので止める。 「それに、こんな街中で男同士が手なんか繋いで歩いてたら、変でしょう?」 「変かな?」 「変ですよ」 「俺は気にしないけど?」 「僕は気にします」 何だか少し胸が痛んだ。 まるで、自分の思いを拒絶されたようで・・・。 「・・・悟浄?」 黙り込んでしまった悟浄を、八戒が心配そうに覗き込む。 「・・・何でもねぇ。俺・・・ここで待ってるわ」 「そうですか・・・?それじゃあ、1時間くらいで戻りますから」 そう告げて、八戒は人ゴミの中へ戻って行った。 ・・・「好きだ」って言ったら、お前どうする? 俺がお前のことを好きだって・・・。 たぶん・・・一瞬驚いて、それから笑って・・・。 きっと、冗談だとか思って・・・。 「僕も好きですよ」なんて言うんだろうな・・・。 なぁ・・・俺はお前のこと、好きでいて良いか・・・? 「・・・遅い!」 1時間・・・と言っていたのに、八戒と別れてから既に1時間半は経っている。 大量の吸殻の山を足元に作って、尚も悟浄は苛立ったように紫煙を吐く。 (・・・何かあったのか・・・?) 時間にルーズな自分ならともかく、あの八戒が理由もなく遅れる筈がない。 「・・・捜しに行ってみるか」 煙草をもみ消して立ち上がると、悟浄は路地から出た。 と、以外にもそこから八戒の姿が、人々の間から見えた。 (何だ・・・こんな近くにいたんじゃん) 「おい、はっか・・・」 近づいて声をかけようとして、そこで言葉が止まる。 (───誰だ?) 八戒の隣に、誰かいる。 長くふわふわとした栗毛が可愛らしく見える、小柄な女だった。 二人は楽しげに会話をしている。 他の奴に・・・そんな風に、笑いかけるなよ。 「あれ?悟浄じゃない」 女の方が、悟浄に気づいた。 良く見ると、馴染みの酒場でよく会う知り合いの女であった。 「あ、すみません悟浄。待たせちゃいましたね」 「もしかして、八戒さんの連れって悟浄だったんだ」 「そうですよ。鈴花さん、悟浄のお知り合いだったんですね」 「・・・俺は、お前らが何でお知り合いになってるかが、知りたいんだけど・・・?」 低くなりそうな声のトーンを、なるべく下げないように注意して、言葉を発する。 「一週間くらい前ね、タチの悪い男に捕まって困っていた時に、八戒さんが助けてくれたのよ」 それで先刻、八戒の姿を見かけた彼女が彼にお礼を言おうと近づき、そのまま話し込んでしまったらしい。 「あらヤダ。もうこんな時間」 用事があると言い、彼女は二人に別れを告げて、帰っていった。 「・・・随分楽しそうに話してたな」 チラリと、横目で八戒を見る。 「そうですか?」 彼女の消えた方を見つめ、八戒は笑ったが、そのまま静かに目を伏せた。 「笑った顔がね・・・少し似てるんですよ、彼女」 「・・・そっか・・・」 誰に・・・なんて、聞かなくてもわかる。 優しい色を湛える瞳は、絶望を知っている。 微笑を浮かべる唇は、嘗て慟哭していた。 その細い腕(かいな)は、そこにあった全てを失った。 何も無かったように笑うこの男は、誰よりも深く激しい愛に、その身を焦がしたことがあるのだ。 「・・・好きなのか?鈴花のこと」 僅かに声が震えたことに、気づかれてしまっただろうか・・・? 「そんなのじゃ無いですよ」 悟浄を見上げて、穏やかに笑う。 (そんな顔・・・するんじゃねぇよ) 誰かを好きになると言う事は、苦しみを伴う事もあると、悟浄は初めて知った。 八戒の傷は・・・まだ癒えてはいない・・・。 八戒の繊細な指に、自分のそれをそっと絡めてみた。 「・・・悟浄、手は繋がないって言ったでしょう」 「繋いでねぇよ。ひっかけてるだけ」 「もう・・・そういえば、荷物どうしたんです?」 「あ。路地に置きっぱ」 「・・・貴方はまったく・・・」 「買い物全部済んだんだろ?じゃ、帰ろうぜ」 「・・・手はこのままですか・・・?」 「いいじゃん。どーせこの先は、人通り少ないし。あ、荷物一つ持ってよ。軽い方でイーから」 「・・・食事の後、食器洗ってくれます?」 「のった♪」 指先から伝わる八戒の体温が、少し痛い。 それを悟られまいと、悟浄はわざと急ぐように歩く。 そんな彼に手を引かれる八戒が、一瞬悲しげに微笑んだのを、悟浄は知らない・・・。 好きだから・・・。 それでも、お前が好きだから。 それもお前の一部だから。 その傷ごと全て、愛してる。 愛してる。 いらない・・・。 もう失いたくないから。 失ってしまうくらいなら、始めから無ければ良い。 大切な人も、愛も・・・。 何も・・・いらない・・・・・・・・・。 END |
幸せなんて、儚いものだよ・・・。(おい、今回これだけか) |