ピース〜パズルの欠片〜



 ノックされる事の無いドアを見つめる日々…。
 訪れたのは、気が狂れそうなほど、平穏な日常。
 日付、曜日というものが余り意味を成さない、生気の無い毎日。
 でも自分は、以前はこんな生活をしていたのではと、悟浄は思い至る。
 そうではなかった、あの1ヶ月の生活の方が、彼にとっては酷く鮮明であり、なお且つ意義あるものであったので、そんな事すっかりと忘れていた。


『さようなら、悟浄さん』
 最後に、微笑んだ顔が忘れられない。
 再会の約束はしなかったけれど、それでも良いと、そう思えた。
 生きる事を選んでくれたから。
 生きていれば、またいずれ何処かで会える…。
 そんな事を考えて、悟浄はボケっと天井を見上げたまま、ただ咥えているだけだった煙草を、歪んだように笑みを浮かべた唇から離して、既に何本かの吸い殻の入っている冷たい金属の灰皿に、押しつぶすようにして揉消した。





 Recollection1

 抜ける様に白い肌は、人形と言うよりも死体のそれに近い。
 実際、彼はここ数日死の淵をさ迷っていて、昨日になって漸く医者から峠を越えたと言う判断が下されたばかりだ。
 こんな田舎町の、大した医療設備も無い環境で、オマケにただの民家で介抱されて、よくもまあ助かったのもだと、悟浄はベッドを占領している自分の拾って来たその塊を見た。
 綺麗な容貌。
 面食いの気のある悟浄から見ても、充分美人の部類にその人物は属していた。
 余りに整った顔立ちが、血色の悪さも手伝って、尚一層その美貌を作り物めいた物にしている。
 ただ、確かにキレイは綺麗だが……。
「………はぁ」
 悟浄は、目の前の人物を拾ってから、もう何度目になるかも解らない溜息を吐いた。
 そんな悟浄の心情を知ってか知らずか、ベッドの上の青年は、未だ昏々と眠り続けている。
 そう…彼は男であった。
 一目見た時からそれは解っていた。女と間違えたなんてことは、決してない。  ただ……。
「…おい、早く起きろよ」
 その瞳を開いて、もう一度自分を見て欲しかった。
 一瞬見ただけの、その翠をもう一度見てみたかった。
 たったそれだけの理由で、悟浄はこの世で最も興味の無い『男』という人種を、訳アリと言うのが明白であったにも関わらず、拾い、手当てし、医者に馬鹿高い治療費を払って、した事も無い(するつもりも無かった)禁煙を続けながら看病している。
 この出来事は、今までの悟浄の人格から言って、奇跡に近い事だ。
 事実、周りの何人かの知った人間は、天変地異の前触れだの、異常気象が発生するだなどと失礼な事を言って大騒ぎしていた。
 それでも、悟浄に行動を起こさせた物は一体なんだったのか、正直自分でも分からない。
 けれど、この眠れる人が目覚めた時、その答えが見つかるような気がした。だから悟浄は待つ。この瞼の奥に潜む静かなる翠が、再び自分を映すその瞬間を。
 …そんな劇的に考えていても、現実はそうそう上手くは行かない物で…。

 それは、唐突に訪れる。

 微かに…微動だにもしなかった、長い睫が震えたかと思うと、吐息と共に白い瞼がゆっくりと開いた。
 息を呑んだのが、自分でも分かる。
 身体に走った緊張感で、筋肉が硬直したようだった。
 視線が、ゆうるりと辺りを巡る。
 その唇が微かに開かれた事に、鼓動が一つ跳ね上がった。
 だが、次の瞬間彼の発したあまりの一言に、心底脱力してしまう事になる。
「……地獄って案外、庶民的な所だなぁ」
 そんな感動的な台詞を期待していた訳ではないが、それは無いんじゃないかと、悟浄は思う。
 彼からは頭上と言う死角立って居るので仕方が無いが、自分の存在に気付いてもらえない事が、妙に腹立たしかった。
「悪かったな、庶民的で」
 無理矢理、彼の視界に入り込む。
「…遅えんだよ、目ェ覚めんのが」
 驚いたように大きく見開かれた瞳に映り込む自分を見つけ、悟浄は微温湯のような満足感に、全身の力を抜いた。
 色々と考えていた事は、全てどうでも良くなっていた。







 コンコン

 静かに二回。
 決して鳴る事が無いと思っていた、ノック音。
 その音に悟浄は、驚くよりも何か不可思議な物を見たかのような、神妙な面持ちになって、扉を見つめた。
 そんな訳無い…そうは思いながらも、悟浄の心臓は期待に躍ってしまう。ゆっくりと、そこに向かう。その路程は、ほんの短い距離であったのに、何キロもの道のりのようであった。
 冷たい金属のノブを、そっと捻る。
 しかし、その先にあったのは、彼の期待とは裏腹な仏頂面であった。







  Recollection2

 青年が目覚めてから、二週間が過ぎようとしていた。
 傷は順調に回復の兆しを見せ、ベッドの上と言う制限付きではあったが、長時間起き上がっていても、その盛大に裂かれた腹の自己主張に、秀麗な眉を顰める事も無くなっていたので、傍に付いていた悟浄と彼との会話も、自然、増えていった。
 しかし、彼は自分の事を話そうとはせず、悟浄もそれを問うような無粋な事はしなかった。悟浄には多少なりともそれを聞く権利のような物があったが、他人の事を聞くのなら、自分の事を聞かれた場合それを答えてやるのも、また礼儀であろうと言う定義が彼の中にあったので、煩わしいのが単に嫌だったと言う事もある。まぁ、彼が自主的に自分に話すのであれば、話は別だが…。
 ともかく、この美貌の青年から受けた質問は一つだけで、それは特に差し障りの無い物であったので、悟浄は答えてやった。
 問われたのは、自分の名前。
 お返しとばかりに、答えてもらえる期待はせず、同じ質問を青年に繰り出そうとしたのだが、直後紡がれた自分の名前を呼ぶ声の心地よさに、悟浄は一瞬ぽかんとしてしまい、そのタイミングを失う事となる。
 声まで美人なのがいけないんだ、と誰に対してか頭で言い訳しつつ、未だそのタイミングは失われたまま。
 此処まで来ると、もうそれは永久的に得られないんじゃないかとさえ思えてくるが、今のところ別段不自由はしていないので、まぁいいかとも思う。
 その彼の名前を、しかも他人の口から知る事になるのはもう少し後の話なのだが、その時の悟浄には知る良しも無く。
 そして悟浄は、名も知らぬ目の前の訳アリ美人の横顔を見詰めた。
 掃除をしない為か、外の景色を少し霞掛かった様に映し出す窓に、溜まった汚れの為だけでないフィルターが、窓の外を滲ませていた。
 断続的に響く、雨音。
 数十分前から降り出したそれは、止む気配は全く無く、その勢いは増すばかりだ。
 雨の多い時期の筈なのにあまり降らないななどと考えていた悟浄は、その雨に少し安堵する。
 濡れるのは御免被りたいが、降ってくれないとこれから何かと、節水だの断水だのが続き、全く持って面倒な事になるのだ。
 だが、同じこの場に居る青年は、そうは思わないらしい。
 窓──いや、恐らくその外の雨…だろう──を見つめる 彼の手が、微かに震えている事に、悟浄は気が付いた。
 湿度や気圧の変化により、雨の日には古傷が痛むとよく聞くから、新しい傷であるが彼の場合もそれと同じようなものかと思ったが、どうもそうではないらしい。
 自分に慕情の念さえ抱かせた、あの湖水を思わせる瞳が何の感情も伴っていないのに、悟浄は紅い瞳を眇めた。
 それこそ本当に、人形のようだ。
 その先に何を見ているか悟浄には到底想像も付かないけれど、ただろくな事は考えていないだろう事は容易に想像が付く。
「…アンタ…さ」
「はい?」
「いや…やっぱいいや」
 一声掛けただけで此岸に引き戻せた事に拍子抜けして、悟浄は後に続く言葉を見つけられずに、そう誤魔化した。  一体何なんですか?と彼はやんわりとした笑みを浮かべた。
 その笑顔さえ、いつもより少し青ざめている事を、見落とすような悟浄ではない。
「あーあ…よく降るな」
「そう…ですね」
 しばし沈黙のまま、悟浄は窓を伝う水の流れを見ていたが、その視線をベッドの上の青年に戻した。
「…寝るか」
「はい、おやすみなさい」
 彼はいつものように、起こしていた体を横たえ、布団を掛け直そうとしたのだが、いつもと違う事態がそこで起こったので、驚いて思わず上擦った声を上げた。
「ち…ちょっと、悟浄さん!?」
 彼が驚いたのも無理はない。突然悟浄が彼の寝ているベッドへ潜り込んで来たのだ。
「…何?」
「何ってあの…」
 逆に問い返されて、彼は答えに詰まってしまった。
「あんたがここん所、ベッドを占領してくれちゃってるお陰でさ、俺床で寝てっから体痛くて仕方ないんだよね」
「あの…じゃあ、僕が床で寝ますから…」
「ばーか、怪我人にそんな事させられっかよ。ってな訳で、ちょっと狭いけど勘弁な」
 そういって、悟浄はそのまま彼の隣に滑り込んだ。
 そして、その腕に青年を抱き込む。
「えっ…と、悟浄…さん?」
「狭いんだからさ、我慢しろって」
 どういう理屈でそんな答えが出てくるのかと思ったが、これは悟浄なりの優しさなのだと、彼は気付いた。
 恐る恐る、甘えるように胸に擦り寄ると、心地良い鼓動が耳に届き、安心感が体を包む。
「…悟浄さん」
「ん?」
「ありがとう…ございます」
 その言葉を耳に入れながら、悟浄は緊張の解けた体を、少し力を込めて抱きしめてみた。
 思ったよりもずっと華奢なその感触に、少し驚く。
 しなやかな濃茶の髪に、鼻を埋めてみると、彼の香りがした。
 トクンと…一瞬、心臓が跳ね上がった気がする。
 抱きしめている腕を、体をなぞる様にこっそりと移動させると、腕の中の身体が少し震えた。
「…悟浄さん?」
 少し早くなった鼓動を感じてか、彼が不思議そうな色を瞳に湛えて、悟浄を見上げて来た。
 薄く開かれている、ふっくらとした唇。
 引き寄せられるように、悟浄はそっとそれを啄ばんだ。
 交差する、紅と翠。
 驚いた彼の顔が少し意外で、笑えた。
「…………」
 彼は何も言わず、ただ悟浄を見上げる。
 どうして?とその瞳は問うているのに、口には出せずに。
「…なんか、さ…。めちゃめちゃ触りたくなっちゃった…んだけど…」
 ぎゅっと腰を抱き込むと、身体が密着しその変化をダイレクトに彼に伝えた。
「あ……」
 下肢に感じた他人の熱に、脅えたように痩躯が震えた。
 やっぱマズかったかと、明後日の方向に視線を泳がせてから、腕の中の彼を伺い見ると、彼は真っ赤な顔をして小さくなっている。
「……なんで、アンタが照れてんだよ……」
「……だって……」
 ますます赤くなって口篭もる彼の様子に、悟浄は思わず吹き出す。
「あ…アンタ可愛すぎ…」
「悟浄さん!」
 クツクツと堪えきれずに肩を震わせて笑う悟浄に、非難するように彼は声を発した。
 悪ィ悪ィと言いながら、悟浄は目尻に溜まった涙を指で拭う。
 そして改めて、目の前の身体を抱き直した。
「なんつーか…我ながら即物的って言いましょうか…」
 知り合ってそう日も経ってない、おまけに名前も知らない(ここまでは大した問題じゃないが…)、男(ここ、重要)相手に…。
「何で勃つかなぁ、俺……」
 しみじみと呟かれた言葉に、腕の中の彼は困ったように首をコトリと倒した。
 そーいうのは、クソ可愛いから止めてくれ。っつーか、俺がこんなになったのも、半分はあんたの責任だなどと、節操無い自分の下半身の事は棚に上げておいて、心の中で言い訳しながら何時の間にか責任転換をしていた悟浄に対して、彼は困ったような表情のまま、意外な事を口にした。
「仕方ないんじゃないですか?男なんて、皆ケダモノですから」
 言葉の内容と、顔にギャップがありすぎて、悟浄はまじまじと彼の顔を見てしまった。
 眼前にある濡れた翠が、妙にキレイだなと悟浄は頭の片隅でそんな場違いな事を考えながら、彼の台詞を頭で反芻してみる。
「…じゃあ、あんたもケダモノなワケ?」
 イメージが結びつかないと、悟浄は思う。
「ああ…一応僕が男だと言うのは、解ってる見たいですね…」
 あまりの状況に、もしかして勘違いされてるんじゃないかと思ったと、彼は呟いた。
「まさか。第一俺、あんたのヌードもう何度も見てるっつーの。裸どころか、内臓まで拝んでんだし」
「そんな事言われましても…」
 ますます困ったように肩を竦める青年に、悟浄はニタリと笑ってみせる。
 あ、何か嫌な予感…と思った青年に、それが気のせいではなかったと知らしめるのに、そう時間は掛からなかった。
 添い寝の形で隣に居た悟浄が身体を起こしたかと思った瞬間、ひょいとそれは身軽に飛び乗られ、青年は彼に組み敷かれる形で押え込まれていた。
 ご丁寧に両足の間に身体をはめ込ませてまでいる手際の良さに、抵抗する間も無く。
 薄々気付いていたが…
「もしかしなくとも悟浄さんて…かなり遊んでるでしょう…」
「あらやだ、わかる?」
 冗談めかして言う悟浄は、それはそれは楽しそうだ。
「でも、男相手は初体験よ、俺」
 普通はそんな初体験は迎えない男の方が、圧倒的に多いだろうと言う突っ込みは、するべきなのだろうか?
「まぁ、イイんでない?ケダモノ同士だし」
「ケダモノ…ですか」
 自分で言い出した事なのに、彼はその単語に自嘲気味に笑って瞳を伏せた。
 彼にそんな表情をさせるモノが何か解らず、悟浄は眉間に皺を刻む。
「そうですね…自分に忠実で、一途で、それ故に…」
 罪深い……。
 最後に彼が発しようとした言葉は、言わせてはならないような気がして、悟浄はその唇に噛み付くように接吻けた。
 合わさった視線の先に、不安定に揺れる深緑。
 それはどう見ても、肉食動物と言うより、それに屠られる小動物の方だ。
 衣服の前ボタンに、指を掛けて一つずつ丁寧に外していく。
 淡いグリーンのそのシャツは、悟浄が買って来たものだ。
 男が女に服を送るのは、それを脱がすのが目的だと言うけれど、もちろんそんな事を考えて、悟浄はこの服を選んだ訳ではない。結果的に、そうなってしまっただけの話。
 晒された華奢な肉体に、絡まる包帯。
 痛々しくもあるが、なんだかちょっと倒錯的でイイ感じ。何て思ったのは今が初めてで、今まで看病の中で何度も見た筈の光景も、何だか新鮮だった。
「傷…開いちまったら、医者になんて言い訳すっかな…」
「なら、止めれば良いでしょう…」
「それは却下。ここまで来ておいて、それは大変美味しくない」
 開かない様に、極力負担を掛けない様にするからと言う悟浄の言葉を、果して何処まで信じて良い物か。
「だから、アンタも大人しくしててね。暴れられたら、それこそパックリいっちゃうから」
「今だって、抵抗なんてしてないでしょう」
 言われて見て、おやぁと悟浄が首を傾げる。
「何で抵抗しないの?」
「抵抗して欲しいんですか?」
 逆に聞かれて、悟浄は慌てて首を横に振る。
「でもさ、フツーは抵抗するよな」
「じゃあ、きっとフツーじゃ無いんですよ、僕。抵抗するほど嫌でもないですし」
 えっ、と悟浄が目を見張る。
「…嫌じゃない?」
「はい」
 確認するように聞いて来た悟浄に、彼は柔らかく微笑んだ。更に、その先に連なる感情の有無を問おうかと一瞬思ったが、悟浄にはそれ以上は恐くて聞けなかった。
 何故恐いなどと思ったのか、その時には解らなかったけれど…。
「……あ…」
 スッと皮膚を伝う感触に、小さく声が出た。
 いつもと違う肌の弾力が珍しいのか、悟浄は彼の肉の薄い身体に、確めるように手を這わせる。
 女と比べると、随分と平坦なその身体は、しかし、そんな事を気にもさせないほどの、色香を漂わせていた。
 裸にさせられて恥かしいのか、ほんのりと匂い立つように染まる、白い肌。
 本当の美人になると、性別なんて関係ないんだなと、悟浄はぼんやり思った。
「…あんたさぁ…」
「……?」
 不意に悟浄が言ったので、青年は薄紅に染まった顔のまま、視線を彼へと向けた。
「なんかすっげー、イヤラシイ身体してんのな」
「─────っ!?」
 余りの事に、絶句してしまった。
「あ、いや…イヤラシイっていうか…エロい?」
 言い直したところで、その内容に余り大差は無い。
 呆然としてしまった青年に、悟浄は悪びれた様子も無く笑った。
 機嫌を損ねない様に、その後悪戯のようにキスをして、それ以上何も考えない様に、指と舌と唇とで、めいいっぱいサービスしたのだけれど…。


 女にだって、今までこんなに優しくしてやった事はないと言うくらい、丁寧な扱い方に、悟浄は自分で自分を誉めてやりたいと思う。
 ただ、包帯が肌蹴てきてしまうのは、仕方の無い事で…。
「──ぅア!ん…あぁ…」
 穏やかな快楽の波に漏らされる嬌声は、悟浄の笑みを誘った。
 ゆるゆると振られる首は、嫌がっている物ではなく、甘い刺激に耐えかねてのもののようだ。
 普段の、汗だくでする激しいセックスも、そりゃイイに決まってるが、これはこれで、別の部分も気持ちよくなるので、偶にはイイと思う。
 純粋に、気分が良い。
「っひゃん!あ…悟浄…さん」
「…なに?もうイきたい?」
 甘えるように伸ばされた腕に答え、悟浄は彼を抱きしめて耳元で聞いた。
 頬を朱に染めながら、彼は一つ頷く。
 そんな様子に、可愛いなどと思いながら、後ろだけでは到底無理なので、前に息づく欲望の象徴を握り込み、解放の目的で、扱いてやる。
 色濃くなった唇からうわごとのように漏れる、喘ぎと自分の名前が心地良い。
 程なく、一層高い声が上がり、腹の上の白い包帯に、白い粘液がパタパタと落ちた。
 ふっと、力の抜けた身体。
 浅く呼吸を繰り返すその顔を覗き込むと、目が合って、少しして紅潮した容貌が、花の咲き綻ぶように微笑んだ。
 その笑顔に何だかたまらなくなって、悟浄は彼を強く抱きしめる。
 名前を呼ぼうとして、それを知らなかった事を思い出し、悟浄は開きかけた口を閉ざし、代わりに花唇に接吻けた。








あからさまに落胆した悟浄を、尋ね人──三蔵は失礼だろうと言わんばかりに、眉を顰めて睨めつける。
「…なに?何の用だよ」
 本来、彼のような最高僧が尋ねてくるような所でもないので、悟浄は渋々ながらも気になってそう聞いた。良く見れば、前に一緒に居た、あの子猿のような少年の姿も見当たらない。
「…俺がお前に用件が在るとすれば、それは一つしかないと思うのだがな」
 そう言った三蔵の言葉に、悟浄はしばし頭を巡らせて見て、あっと声を発した。
「…まさか…」
 そう、彼と自分との間に共通する話題と言ったら、一つ──厳密に言えば、一人…であろうか──しかないのだ。
 あわよくば、玄関先で済ませてしまおうかと思っていた会話を、悟浄は信仰心の欠片も無いその最高僧を自宅に招きいれる事で、長引かせる事にした。
 どんな事でも良い。彼についての話が聞きたかった。
「で、どーよ。アイツは元気な訳?」
 嬉々として尋ねた悟浄に、しかし三蔵は無言のまま、勧められた席にも座らず、ただ真っ直ぐに悟浄を見ていた。
 さすがに訝しんで、悟浄が声を発しようとしたその時。
 その不機嫌そうに結ばれた口から、信じられない言葉が漏れた。







Recollection3

「どうして、お出かけにならないんですか?」
 自分より幾分か大きな瞳が、そう不思議そうに尋ねてくるのに、悟浄は答えに詰まった。
「どうしてって…」
「僕はもう大丈夫ですから…態々付いていて下さらなくても、平気ですよ?」
 確かに彼の体調は、日常生活ができる程度まで回復していた。
「いいから、気にすんなよ」
「でも……」
 罪悪感を感じているのか、彼は少し申し訳無さそうに眉を顰めた。
 そんな顔をさせてしまった自分に、悟浄は僅かな後悔を感じる。
「お前の…傍に居たいんだ。…って言ったら、ダメ?」
 探るように…彼にしては小さな声で尋ねて来た悟浄に、彼はキョトンと目を丸くした。
「悟浄…さん?」
「傍に居たい。…迷惑か?」
 もう一度聞いて来た悟浄に、慌てて彼は首を振った。
 答えようとして、開きかけた唇は、重なった吐息に奪われる。
 こんな事をしていると、恋人同士にでもなったようで可笑しかったが、笑う事はできず。
 少しの力を込めて回される腕に、彼は身を委ねた。
「迷惑じゃないです。……でも…」
「でも?」
 互いに囁き合うだけの音量で、まるで睦言。
「あまり…甘やかさないで下さい…」
 付け上がりたくなるから、と…。
 呟きに揺れた細い首筋に、顔を埋めた。
「いいぜ、付け上がっても…。ゲロ甘に、甘やかしてやっから」
「悟浄さん…」
 触れている肩が、小刻みに震えて、彼が笑っている事を悟浄に伝えた。
「いいじゃん。人生で一人くらいベタベタに甘やかす相手が居ても」
「それが僕で、良いんですか?」
 優しい貴方には、とても相応しくない人選なのにとは、口にしなかったが。
「アンタがいいの!言っとくけど、別に理由なんて無えからな」
 腕に力を込めてから、瞳を覗き込むと、思いがけなく綺麗な眼差しとぶつかる。微笑んではいなかったけれど、子供のように無垢な顔で見上げてくる、飾りを脱ぎ捨てたかのような裸の表情に、無意識に唇を寄せていた。
 近づくに連れ、ゆっくり長い睫のかかる様子が、酷く儚い。
 それでも悟浄は、もう何度目になるかも解らない、甘やかな感触を、何も見なかった事にして、ただ深く味わった。





 別れの来ない出会いはないと知っているけれど、こんな別れをする為に、俺達は出会ったんじゃないだろう?





「さようなら、悟浄さん」





「猪悟能は死んだ」




 頭が真っ白になると言うのを、悟浄は生まれて初めて経験した。
 フリーズした頭が再起動するのに、数瞬。
 そして、最初に込み上げて来たのは、怒り。
 目の前の男に掴み掛かるも、正論を立てられて、鼻であしらわれただけ。
 何を言ったところで、したところで、その目の前に突きつけられて事実は、変らないのだ。
 悲しいのか悔しいのかも良く分からなくて、悟浄はただ力の抜けた身体を、背後の椅子に重力に任せて沈めた。





 何人かの女が、悟浄を迎えに来たりもしたが、その誘いに乗る事も無く、ここ一月の間、悟浄は出掛けようとはしなかった。
「どうしちゃったの?家を空けたくない理由でもあるわけ?」
 呆れたように、誰かに言われた台詞。
 それに答えようとして、開きかけた口のまま悟浄は今正に言おうとした自分の言葉に、愕然としたのを覚えている。
『俺が居ない間に、アイツが帰ってきたらどうするんだよ』
 自分は…何処かで信じていたのだ。あの青年が…悟能がここへ帰ってくると。
 可笑しさから、笑いが込み上げてくる。
 無駄な時間だったのだ。彼は帰ってくる筈も無かった。
 もう…死んでいるのだから。







 すっぽりと一つだけ空いた、ピースの足りないパズルが心の中にあるような、そんな虚無感。
「…俺、単純だかんなぁ…」
 パズルと言っても、きっと子供がやるような、単純な物。でもその分、そのピースの占める割合は、大きかった。
 今まで空いていた事すら解らず、見つけて、埋めて、そして失って…足りない部分にやっと気付いても、同じピースは無いから…。
 似た形の物を見つけられたとしても、それは所詮、其の場凌ぎの気休めにしかならない。
 同じピースは、二つと無いのだ。
 埋められるのは、彼だけなのに…。
「…なあ、おい…どーしてくれんだよ」
 駆け引き無しで…共に在りたいと、そう思えた。何の見返りも要らないから、なんでもしてやるから、傍に居たい、傍に居て欲しいと、そう願った。
 残されたのは、最後の言葉と、消えない笑顔と、行き場の無い想い。
 そして…むせ返るような、残り香。
 残された記憶は、どれもこれもが余りにも鮮明で、甘やかで……。
 けれど、薄情な言い方をするようだが、思い出なんてものは、すべて過去だ。
 追慕に浸ると言うのは、悟浄のガラじゃない。
 自分はこれからも、生きていかなければならないのだ。彼を失っても……。
 吸い殻の溢れ返った灰皿――その隣にある、数日前までコーヒーが入っていたはずのマグも、同じような惨状になっている――を眺めて、早々吹っ切れるはずもない頭を、無理矢理切り換えようと、わざとらしく頭を振ってみた。
 動きにあわせて、悟浄の長い髪が揺れる。
 前に流れた紅に目を留めて、一房、からめ取って指で弄ぶ。


『貴方の瞳と髪は、僕への……』


「…切っちまうか」
 もう、必要無ぇし……。








 洗面台で髪を切ったら、排水口が詰まった。
 まあ、いいや。大したことでもない。
 残された香りを消すように大量に消費したたばこの残骸も、そのままにしてきてしまったが、気が向いてから片付ければいい。
 今は無性に、外の空気が吸いたいから。
 何が変わるわけでもない。
 元に戻っただけだ。
 ただ、前より少し頭が軽くて、肩の辺りが寒いだけ。
 そう、大したことじゃないさ。
 隣に誰もいないなんて、今に始まった事じゃ無いから……。
 ふと、目に留まった紅。
 …よぉ、お仲間さん。
「おねーさん。これ一つちょーだい」
 手に取ったリンゴは、密を含んで随分と甘そうだ。
 すっと…横から手が伸びた。
「…綺麗な赤ですね」
 一瞬、空耳かとも思った。
 次いで目に飛び込んできた翠に、我が目を疑う思いだった。
 等々頭までイカレたのかと、思ったくらいで。
「悟浄」
 微笑みは、余りにも鮮やか。
 やっぱり、なんだか色々思ってたことが、すべてどうでも良くなった。
「…ああ」
 答えて、笑みを浮かべる口元。
 だって、らしーじゃん。余りにも劇的だろ?
 禁断の木の実の前で、再会なんてさ。

 楽園を追われたとしても、お前となら悪くないし。

 そこから、また作ればいいじゃん。
 俺たちだけの、楽園を………。



 そう、こっそり耳打ちしたら、アイツはやっぱり笑ってくれた。
 そうですね、なんて言いながら、変わらぬ微笑で。
 そっと離れたとき、鼻をあの香りが掠めた。


 その香りは、欠けた心に入り込み、隙間を埋めて胸を満たして、流れた。









 END

   ちょっと久々に58書いて見ました(問題大)
 「浄八書いて下さい」と言って下さっていた方々、お待たせしました。
 待たせた割には、駄文ですが・・・(遠い目・締め方が気に入らない)。本当は、ちゃんとエロ書こうかと思ったんですけどね、途中で放棄(滅)
 元ネタ及びタイトルは、もちろん元王子みっちーvvv
 カラオケで歌ってたら、書きたくなった(笑)
「王子」って響き、いいですよねー。私にもいろいろとあだ名はあるけれど、こう呼ばれるのが一番好きだったりします。
 しかし、呼ばれる名前が「先生」だったり「ドクター」だったり「若様」だったり「王子」だったり、私って一体・・・。



女の子お絵かき掲示板ナスカiPhone修理